風鈴の夕べ


ちりん

と、遠くで風鈴の音が聞こえた。 
学校の帰り道。陽が沈み始めて空だけでなく街までもがオレンジ色に染まっている。 
何も考えず、ぼーっとただ道を歩いて行く。いつもと同じ、何もない通学路。
ふわり、とひとすじの風。また遠くで風鈴の音が聞えた。 
風鈴なんて珍しいな。最近はあまり見ないし、その音を聞くことも少ない。
今は風鈴というよりトーンチャイムなんていう音も形も可愛らしくて凝った造りの物しか見ないからとても珍しく感じる。
だけど、凛と響くその音は無意識のうちに私の心を和ませていた。 
心地良い音だ。 
この風鈴の音は本当にいい音だと思った。 

ちりん、ちりん 

さっきより強く、近い所から風鈴の音が聴こえた。 
その風鈴の音に共鳴するように私はトクンと脈打つ。 
ふ、と前方を見る。 
視界に広がるのはいつもと変わらない、オレンジ色に染まった少し寂しい通学路だった。
 
ちりん

キレイな音。 
心からそう思う。 
この音は何処から聞こえてくるのだろう? 
思わず私はその辺をきょろきょろと見回してしまう。  そして、さほど苦労せずその風鈴を見つけた。 
すぐそこにある背の低い垣根の家だ。  その家には縁側があってそこの屋根に風鈴が吊るされている。ただし、驚いた事がひとつ。
風鈴のすぐ下に、ひとりの男の人が座っていた。
おそらく20代後半くらい。灰色の浴衣を着ていて、少し長めの黒髪に細身の眼鏡をかけている。彼の咥える煙草から揚がる煙が、少し風流に思えた。 
私は意味もなく、ただ彼をじっと見つめる。  見惚れていたのかもしれない。 
不意に目が合った。 


「こんにちは」

 
私は何かを言おうとした。だけど、彼の方からそう声をかけてきた。しどろもどろしながら何とか返事をする。

ちりん、ちりんちりん


「この時間になると、空もオレンジ色で綺麗で涼しくなるよね」


彼は私に話し掛ける。 
私は妙に緊張してしまって変な相槌しか打てない。


「君、中学生?」

「はぁ……」

「夏は好き?」

「別に……」

「此処から家近いの?」

「まぁ……」

 
そんな、くだらない会話。 
会話とは言えない会話。 
彼は私を見たり、空を見たり、風鈴を見たり、なんだか挙動不審だった。  だけど挙動不審に見えない。  何故か彼の行動一つ一つがとても風流に見える。
  
空は色味を変えて、少しだけ暗くなる。

  
「君、名前なんていうの?」

「え?えっと……」

「あ、あぁごめん。これじゃあなんだかナンパでもしてるみたいだね。僕は神名唯って云うんだ」


彼は、唯さんは照れた様に笑った。


「女の子みたいな名前だろう?まぁ、男にしては変わった名前だから気に入っているんだけどね」

 
唯さんの自虐的とも言える少しだけ哀しそうな物言いに、私は激しく首を振って自分でも判るくらい顔を真っ赤にしながら言う。


「そ、……そんなことないです。全然変じゃない……、素敵な名前だと思います」 


ちりん

会話に入り込むように風鈴の音が響く。 
空はまた少しだけ暗くなる。

 
「ありがとう」


唯さんは優しげに微笑んだ。 
トクン、と私はまた風鈴に共鳴するように脈打つ。


「あ、そうだ。ちょっと待ってて」

 
唯さんはそう言って縁側から立ち上がり部屋の中へ入っていってしまった。 風鈴が三回響いて、そんな短い時間で唯さんは戻ってきた。 縁側から草履を穿いて私の元へ寄って来る。
 
ちりん

今まで響いていた風鈴の音。その時だけは高い音が響いた。

 
「これ、君にあげるよ」

 
唯さんは右手に縁側に吊るされている風鈴より一回りほど小さい、可愛らしい風鈴を私に見せた。

 
「あの風鈴にセットで付いていたんだけど……」


話を続けながら唯さんは縁側の風鈴を見た。  風鈴は強い風に吹かれて舞い踊るように鳴っている。

  
「ひとつで充分だし、しまっておくのも勿体無いから君にあげる。それに君、あの風鈴をずっと気にしていただろう?」


その風鈴は、あの縁側の風鈴とは違って、安っぽくてすぐに壊れてしまいそうな代物だったけど、その時の私にはとても高価な物に思えた。

 
「……いいんですか?」
  
「うん、構わないよ」

 
風が吹いて、  風鈴の音が響く。


「じゃあ、お言葉に甘えていただきます。ありがとうございます」

「うん、どういたしまして」


ちりん

空はまた暗くなって、辺りもそれに比例して闇が濃くなっていく。


「あの、私もう帰らなくちゃ」

「……そう、引き止めてしまってごめんね」

 
唯さんは優しく笑う。


「じゃあ、失礼します」
 
「うん。またね」


唯さんは終始微笑んでいた。  何故か寂しそうな微笑。 
だけど私は、そんな事全く気にもとめないで、というか全く気付かないで『またね』と言ってくれた事をとても嬉しく感じた。 
それから私は暗くなってゆく通学路を唯さんから貰った風鈴を眺めながらゆっくりと歩いた。


* * *


朝は苦手だ。
たとえ冬でも夏でも、その独特な雰囲気というか、空気が苦手なのだ。 
起きられないと言うより動きたくないと思う。
それでもいつも通りに学校へ登校する。 
昨日あった嬉しかったこと。楽しかったこと。そんなことを思い返すと少しだけ朝の憂鬱も段々と晴れていくように思えた。
今日は朝から夏晴れと言わんばかりに暑くて、太陽がまぶしい。

トクン
 
風鈴の音が聴こえた訳じゃなかったけど、唯さんに会えるかもしれないという淡い期待に心躍る。 
もうすぐ唯さんの家だ。 
近付くにつれ期待が膨らむ。 

だけどその期待はすぐに打ち砕かれた。 
まず自分の目を疑った。
その後、夢じゃないかと自分の頬をつねってみた。
そして目の前が真っ白になる。

唯さんの家が唯さんの家の在るべき場所に存在していなかった。

昨日確かにこの場所に在った。 
背の低い垣根。 
いまどき珍しい縁側。 
手入れの行き届いた庭。 
そして心震わすような綺麗な音がする風鈴。 
その全てがなくなっていた。 
なにが起きたのか理解できない。
 
ドクンと心臓が鳴る。

私がその場に立ちすくんでいると何処からかひそひそと私を見てからかっているような口調で誰かの会話が耳に入ってきた。


「火事の原因、放火らしいわよ」

「えぇっ?そうなの?物騒ねぇ」

「奥さんとご主人は運良く2人で出かけていて留守だったらしいんだけど、たまたま里帰りしていた息子さんが焼死体で出てきたって」


え?何?
今この人たちなんて言ったの?
放火?なんで?
混乱する。頭の中がぐちゃぐちゃになる。


「ゆ、い…さん」

  
呟く。 
誰にも聞こえないように。 
風鈴のように。

昨日の出来事は本当は夢だったんじゃないんだろうか?
そう思えるくらいその場所には何もなくて
今もまだその夢の続きを見ているんじゃないか? 
そう思えるくらい何も耳に入ってこなかったし何も視界に映らなかった。


「唯さん」

 
自分が泣いていることに気付く。 
唯さん。 
昨日逢ったばかりの人。 
何でその人のために私は涙を流しているのだろう。 
ただポロポロと涙が落ちていく。 

どうして? 
昨日の今日でどうして? 
もっと話せると思ってた。 
もっと逢えると思ってた。
考えただけで涙が溢れる。
日差しが痛い。
完璧に覚醒した夏の日差しがじりじりと私を照らす。
熱いし、痛いし、ただ立ってるだけでも汗が出る。
早くこの場から離れないと学校に遅刻してしまうし、長い間こんな陽の照る場所に立っていたら日射病や熱中症になってしまう。
それなのに身体が動かない。
頭では分かっているのに哀しすぎて身体が動かない。



  私はその場で、ただ静かに涙を流し続けていた。

 

  名前を伝えられなかったあなたへ





end


(20040000)


後書

大昔に書いた初めての短編。
当初サイトに掲載したものに加筆修正しました。

(20080212)